連載1:地域はどう変わったか?

2008 年 3 月 28 日 · Filed in スポーツコラム, 総合型地域スポーツクラブ

徳島大学総合科学部 准教授 長積 仁

1.「ファスト風土化」する徳島?

スポーツのことについて、論じる前に、少し現在の地域がどのように変わったのかを考えてみたい。本来、地域とはある一定の境界内で、そこに住む人々が互いに関係を持ちながら、生活を営む場所である。つまり地域とは、その地に住む人々が調整・連携・融合を図りながら、生活を織りなすための場であり、生活という営みを行う人々によって形成された集合体、また集団とも考えることができる。

しかしながら、都市化の進展にともない、徳島のような地方都市はショッピングモールやファストフードに代表されるようなチェーン店の開店が相次ぎ、まさしく金太郎飴型の開発を繰り返して、もはやまちの個性や都市のアイデンティティは失われつつある。同時に、若者を中心とした住民の関心は都市機能へと向くため、高速道路の建設とインターチェンジの設置といった都市への利便性の確保は、「ストロー現象」として地域から人々や消費を奪う。景気の低迷、特に徳島市内の商店街や百貨店が苦戦するのは、高速バスで神戸や大阪方面へと県民が買い物へと出かけ、自ら住む地域でお金を落とさず、県内で稼いだお金を県外に流出させてしまうからだ。それは、地域に対する住民の愛着心をも希薄化させる。「徳島はなんもない」「徳島は田舎や」と。

さらに、世代間交流やバトンタッチがうまく進まないことによって、地域文化や伝統芸能といった地域固有の財産が受け継がれにくいという苦しい事態が生じ、それらがより一層、地域内の世代間ギャップを生み出している。それは自治会や町内会、またスポーツチームの指導者、さらには観光資源ともなる阿波踊りや藍染めといったものも例外ではない。その他にも工芸品、農林水産といった産業にも強く関係している。特に高齢化率が高い徳島県では深刻な問題だ。三浦(2004)は、日本の地方で起こるこのような現象のことを、「ファスト風土化」と呼び、ファストフードのようなまちの均質化が地域固有の歴史と自然を破壊すると指摘している。

2.小さな綻びに目を背けていると

犯罪学者のWilsonとKelling(1982)は、荒廃する都市を憂って「壊れ窓(Broken Windows)」理論を展開した。この理論は、誰かが建物の窓を割った後、それが修理されず放置されたままならば、その人は他の窓ガラスを割っても大丈夫だろうと思い、その建物の残りの窓ガラスを全て割ってしまうという犯罪心理を示すものである。さらに行為がエスカレートすれば、その人はそのうち建物に火をつけるかもしれないという。つまりこの理論が提示しているのは、軽い迷惑ぐらいのことでも放っておくと、そのうちそれが大きな迷惑に発展する、ということである。例えば、まちの玄関ともいえる徳島駅前。高校生が駅構内において制服で平然とタバコを吸っている姿を目にするが、それは人々にどんな印象を与えるだろうか?県民は仕方なく、目を背けるだけかもしれないが、他県からその徳島に観光で訪れた人々は、列車やバスを降りてその光景を目にした瞬間、自分の持っている財布やバッグをひったくられないように握りしめるか、そのまま列車やバスに乗って自分の住んでいるまちに引き返したいと思うかもしれない。同様に、自分が入会しているスポーツクラブの倉庫にあるスポーツ用具がずっと散乱したままの状態であったり、少年スポーツチームの指導者が活動中に平然と選手を叩いていたりしている姿を目にしたら、どのような気持ちになるだろうか?つまり、我々の目の前にある小さな綻びを放っておけば、地域社会に多大なダメージをもたらすということである。言い換えれば、地域内で生じている小さな綻びに目を背けずに、それを直視し、我々一人ひとりが対処していく、あるいは対処できるようなシステムを築き上げることが望まれるのである。

3.人々の繋がりが薄れることによって失うものとは?

Putnam(2000)は、「Bowling Alone(孤独なボウリング)」という著書の中で、アメリカは人口増加を背景に、1980年から1993年にかけてボウリング人口が10%増加した一方で、クラブやチームに所属してリーグボウリングに参加する人が40%も減少したことを指摘し、このようなリーグボウリングの衰退がボウリング場の経営者を脅かすと警鐘を鳴らした。なぜならば、リーグボウラーは、一人でボウリングをするソロボーラーと比べて、ピザやビールを3倍多く消費するからである。またPutnamは、ソロボーラーはビールとピザを介しておこわなれる和やかな会話や人的な相互作用、さらにそのような行為の中にこそ存在する社会的つながりも失ってしまったと指摘している。つまり我々は、職場環境や日常生活のあらゆる面において、行動を「個人化」あるいは「私人化」させてしまったことにより、大切な家族の絆のみならず、地域社会の形成にとって欠かせない個人間のつながりや信頼関係、また共属感情や規範意識といった多くのものを失ってしまっているということである。その失われたもの、それが「ソーシャル・キャピタル」である。

4.地域の憂い

「ソーシャル・キャピタル」とはいかなるものか?そもそもこの言葉が最初に用いたのは、ウェストバージニア州の農村学校の指導主事であったHanifan(1916)である。教育者である彼は、学校が成功するためには地域社会の関与が重要であることを主張するために、善意、仲間意識、共感、そして社会的交流は欠くことのできない要素であり、近隣との交流がなければ、社会的に支援されることはなく、人々がつながりをもつことが地域社会全体の発展にとって重要であると述べた。つまり、「善意、仲間意識、共感、社会的交流」の蓄積をソーシャル・キャピタル(社会関係資本)だと説明した。ところが現在の学校の姿は、どうであろうか?教員の資質低下に対する批判は真摯に受け止めるべきであるが、「モンスターペアレンツ」と呼ばれるような父母や保護者の存在は、学校や地域社会を成功させるための要因と考えられるであろうか?学校と家庭は、子どもたちの成長を促進するためのよきパートナーであるべきにもかかわらず、学校は怯え、家庭はクレーマー化し、地域は無関心。それで健やかなる子どもたちの成長が促せるとは、とても想像できない。

またアメリカで大規模な都市再開発が進む中、その取り組みを冷徹に批判したJacobs(1961)は、近隣都市と比較的自由な交流が最大限に促進されるように設計された都市では、街路は安全で、人々も環境に満足しており、地域住民には持続性と責任の感覚が育てられると主張した。すなわちJacobsは、伝統的な都市コミュニティに蓄えられてきた強い個人間のネットワークや信頼、協力、共同行為の基礎となる、いわゆるソーシャル・キャピタルは、大規模な都市再開発によって失われるということを指摘した。

伝統的なまちでも、オールドタウン(旧市街地)とニュータウン(新興住宅地)の格差や融合については頭を悩ませているが、徳島県内においてもマンションの建設が進行し、どちらかといえば、近所づきあいをわずらわしく感じ、「個人や我が家」を独立した単一の存在と認識したい人たちが地域内での共同体意識、すなわちコミュニティ意識を希薄化させていく。もちろん、マンションの存在を否定しているのではなく、空間的な障壁以上に「心の障壁」、それは思いやりや配慮、また人々の繋がりや共同体意識の欠落といったものがコミュニティを風化させていくのである。例えば、ゴミ置き場の利用と、分別や整理、衛生的な利用といったある種の保全の間に垣間見る「権利と義務」における住民の意識に現れているだろう。つまり、権利意識はひじょうに強い半面、それと並立する「義務」への意識が大変薄いということである。

5.ソーシャル・キャピタルとは?

ソーシャル・キャピタル研究の第一人者として知られるPutnam(2000)は、ソーシャル・キャピタルを「個人間のつながり、すなわち社会的ネットワーク及びそこから生じる互酬性と信頼性の規範である」と定義づけ、一般化された互酬関係をともなった社会的ネットワークと、それによって培われた信頼感は、社会生活をスムーズにし、協調的かつ効率的な社会を生み出すための素地になるものと考えられた。彼は、大統領選挙の投票率の低下、政治集会・請願署名へ参加する人々や定期的に教会に通う人々の減少、職場における労働組合の加入率の低下、一家団欒で夕食をともにする人々の減少、そしてスポーツ活動に参加する人々の減少といったアメリカ社会の歴史的変化を明らかにし、古き良き時代から培われたアメリカ社会のソーシャル・キャピタルが大幅に減少したと論じた。そして、このような現象が生じた背景には、世代による変化、テレビをはじめとした電子メディアによる娯楽の私化、共稼ぎなどによる時間的・金銭的余裕の喪失と地域活動への不参加、住居が郊外へと広がることにともなう通勤時間の増大といった4つに原因があると指摘したのである。

市長選を目の前に控える徳島市。投票率はどうなるのだろうか?町中の名所には桜が咲き始め、花見に訪れるグループや家族も多いことだろうが、ここ数年、会社などの忘年会、新年会の回数が減ったという声をよく聞く。会社での繋がり、地域での繋がり、そして家族での繋がり、これら個人間の繋がりが薄れ、徳島県内のソーシャル・キャピタルが減退するのではないかと心配してしまう。「地域の憂い」ではないが、次回以降は、「スポーツの憂い」について考え、そして総合型地域スポーツクラブの存在が地域のソーシャル・キャピタルの醸成や蓄積にどのように機能しうるのか、またこのクラブの存在そのものが地域の「財」となりうるのかを考えたい。

文献

三浦 展(2004)「ファスト風土化する日本:郊外化とその病理」洋泉社.

Wilson J.Q. and Kelling G. (1982): Broken Windows. The Atlantic 249(3): 29-38.

Putnam R.D. (2000) Bowling Alone: The Collapse and Revival of American Community. Simon & Schuster NY. (ロバート.D.パットナム:柴内康文訳(2006)「孤独なボウリング:米国コミュニティの崩壊と再生」柏書房.)

Hanifan L.J. (1916) The Rural School Community Center. Annals of the American Academy of Political and Social Science 67: 10-138.

Jacobs J. (1961) The Death and Life of Great American Cities. Random House Inc. (J. ジェイコブズ:黒川紀章訳(1977)「アメリカ大都市の死と生」鹿島出版.)